昭和44年02月10日 月次祭
今日は、金光教のおかげ観と言ったようなものを聞いていただきたい。おかげ、おかげという事を申します。おかげ観、観は観るですね。人生観という観です。何でも金光様の信心をすりゃあ、おかげになる。おかげおかげと。成程、それは有り難い事なんですけど、そりゃ内容のないおかげであってはいけんのです。内容を分からしてもらい、内容を持ったおかげでなからないかん。
ただ今私、今日は、どのような事を聞いていただこうかと思うてただ今神様にお願いさせて頂いたら、このくらいばかりのですね、ありゃもう見事な皿、、まあしかもそれは骨董品のよう、骨董価値のありそうな皿です。その皿が、おしいことにこう、少しばかり欠けておる。ね。欠けておる。私が御神願頂きながら、いやあ、おしいことだなあとこう思うておる。そういうようなお知らせだった。
それで今日私はその欠けておるからおかげだから、今日はひとつ金光教の私が感じておるいわゆるおかげ観です。おかげおかげと、金光様の御信心はね何でも有り難く受けさえすりゃよか。何でもおかげで受けてさえいきゃあおかげになる。確かにそうです。ね。けれどもそれが、只ただおかげおかげと言うておくだけじゃいかん。金光様の御信心は、もうご信者さんになればもう全てがおかげ。今日はおかげ頂きました。
と言うて、お参りをしてこられる。帰る時も今日はおかげ頂きました。って言うて帰る。皆さんにこうやって会いますと、あっおかげ頂きなさった、ああおかげ頂きました。もう全てがおかげです。ところがその金光教の信心のこれがこの合言葉のようにですね、挨拶のようになったんではいけないでしょう。このおかげということがほんとにおかげと分からしてもろうて、おかげじゃなからなきゃいけん。
よくあの金光教の御信者さんがこうお茶なんかを頂きます時にね、お湯のみ茶碗がこう欠けたのが出ます。あらっこりゃ欠けておったとこう言う。いやあこりゃおかげですがっちゅうてから、欠けておるからおかげですがって言うて受ける。ね。まあそれがお茶のみ茶碗ぐらいならおかげですがで受けられますけれども、例えばなら自分の大事にしておる骨董品の皿と言った様な物がですよ。
欠けた時にはおかげですがって言えるだろうか。ここんとこをひとつ、今日はひとつ分かって頂きたいとこう思うのです。今日は私久しぶりで、親教会の御月次祭にお参りをさせて頂いて、手長の御用も頂かしてもろうて、今日は若先生がちょっと体が悪くてお参りが出来んと言うもんですから、いつも私御月次祭後にお参りするんです。長男と長女がお参りします。で今日は私と長女と、高橋さんの車がございます。
高橋さんに送って頂いてからお参りをさせて頂いた。お参りをさせて頂いて帰ってくるまで車の中でも家に帰ってからでも、今日はおかげ頂いた、今日はおかげ頂いたって言うて私が話すんです。お祭りも有り難かったけれども親先生のお話が有り難かった。もう実にたんたんと説かれる。しかも順々と説かれる。この辺はなかなか難しいんですよ。もうたんたんとこう説かれる。山がない。
聞きようが悪いと眠気がくるごたる。淡々と( )ね。けれどもそれをねもう順々として説かれるのですそこがこちらの胸を打ちます。話しは帰りがけの車の中で高橋さんと話して参りました。上手下手じゃないなあと問題は親先生の確と信じておられるとこに、是が親先生の信心というものがです淡々とではありますけれども、それがしかも順々と繰り返し繰り返しお説きになるのを聞かせて頂いておって有難うなった。
今日はお参りをさして頂いて良かったと思わせて頂いた。お月次祭に会わせて頂いてよかったとこう。こりゃあ偶にはやっぱり若先生と変わってから私がお月次祭おかげ頂かんといかんと思うた。それがこう言う様な事をお話しなさいました。昨日親教会の御用の為に久留米の方へおいでられました。で帰りは何ですか西鉄タクシーを呼んで善導寺まで帰ってみえとられます。
車に乗ったらとたんにその運転手さんが言うことです。先生今日は用心して行きますけん安心してくださいっちゅう。私はさっきからお客さんを送って、あの五郎丸って言う所がありますね。久留米甘木間の間に宮の陣の近所に。五郎丸の踏み切りにさしかかりましたらね、年の頃なら五十ぐらいの方と思われる方がです、その電車にひかれなさった。もうそれを目の前で目撃してですね、もうほんとに用心せないけんなあと。
わざわざ飛び込み自殺したわけじゃないだろうけれども、なんかこう酔っ払っとてでもおんなさったじゃなかじゃろうか。恐らくはもう新聞にすぐでましょうけれども。と言うてその乗ってすぐそれを話された。首がコロッと落ちとった腹からもうこの臓腸が一杯でとった。もう親先生が乗られたとたんにですね、その運転手さんがそれを見てきたばっかりですから、用心して行きますから先生安心して下さいとこう言う。
人間のほんとに、この運命とか寿命とか言ったようなものはもう、ほんとに教祖様がおっしゃるように、障子一重がままならぬ人の身である。ね。一寸先は闇の世である。何時どういう災難が待ち受けとるとも限らないのである。そういう時にです私どもがね、どういうような事が起こってきても驚かんですむ信心をしておけとこう。どのような事が起こってきても驚いてはならんぞとも教えておられます。
どのような事が起きてきても驚いてはならんぞと。同時に痛いのが治ったのが有り難いのではない。いつもまめなのが有り難いのぞと。私どもが日々平穏無事であるということ。ああ今日は災難にあうところをこういうふうにおかげ頂いたという事も有り難いけれども、平穏無事であったという事はもっともっと有り難いのぞと。そういう信心をさして頂きながら、日々何時どういう運命が待ち構えておるやら分からんから、ね、
そこの所を助けて貰えそこん所を御繰り合わせを頂いて、災難を避けさせて頂いてお願いをしていくおかげを頂かなければならん。もうこの辺が親先生のお話はもう実に淡々と説かれるんです。ね。片一方には何時どういう事が起こってくるか分からん。どういう事が起こってきても驚いてはならんぞと教えておられるその反面にはです、お繰り合わせを願わせて頂いて、災難が掛って来る所を災難を払うてもらう。
又は災難に合わない様にお繰り合わせをお願いさせて頂いて、何時も平穏無事と言う様なおかげを願わなければならんけれども、ならんけれども万一例えば、そう言う様な目の前が真っ暗に成る様な事が起こってきても驚いてはならんぞ。驚く事はならんぞと教えておられるそういう信心を身に付けておかなければならないという事。今日の親先生のご真意、私はそのお説教を頂いてから、頂いてあの自分なりの信心でそれを受けとめて、やはり頂かなければいけません。
皆一様というわけにはいきません。自分なりに有り難いものにして、頂かないかんと思うんです。親先生は今日、神様に喜んで頂く信心という事が、まあテーマであったと思うんです。それにはたとえば、立教神伝の中にもありますように、天地金乃神様が教祖生神金光大神様に、世の中には難儀な氏子がある、取り次ぎ助けてやってくれ。とこう言うて頼んでおられる。
天地の親神様が金光大神に、世の中には難儀な氏子がある、取り次ぎ助けてやってくれと、頼んでおられると言う事をです。その頼みを聞かせて頂く。その願いを自分の願いとする。神の願いを自分の願いとする。神様が一番喜んで下さると言うのは、お参りもそう、お供えもそう、だけれども、もっともっと神様が喜んで下さるのは、世の中にたくさん難儀な氏子がある、その難儀な氏子が取り次ぎ助けられて行くという事が神の願いでもあると同時に、神様が一番喜んで下さるんだと。
ほんとにやっぱりそうだと思う。あれは色が黒いから色が白いからと言うてかけへだてをなさるようなことはない。黒かろうが白かろうが、南方に住む人であろうが、どんな雪国に住む人であろうが、天地の親神様の氏子には変わりがないのである。ですから、どの氏子が不幸せになっても神様は不幸せなんです。氏子が助かれば神様が助かりなさるのである。そういう神様だから、お互いしっかり、自分の周囲に難儀な人が沢山あるから、そういう難儀な人の取次ぎ助けを、の御用をさせてもらわなならんと。
御祝詞の中にも必ずそれがうたってありますように。世のお役に立つ氏子にお取り立て下さいと。世のお役に立つ氏子。社会のお役に立つ氏子。お互いがそういう願いを持たなければならない。そして、難儀な氏子が取り次ぎ助けられて行くことを、それが神様の願いであるのですから、その願いを、神の願いを自分の願いとして、行くような信心を神様は一番喜んで下さるのだと。
世の中はもうほんとにお先真っ暗、障子一重がままならぬ人の世に住まわせて頂いておる私どもでございますから、そこんところを祈って行く、願って行く。という信心。そこで、私はそのお話を頂かせて頂きながら、私は私なりに感じるのです。なるほどそうだな。世の中の難儀な氏子が助かって行くという事が神様の一番の願いである。だからというて、金光様のご信心すりゃ、こうもおかげ頂きます。
ああも助かりますといくら言うたところで、自分自身が助かっておらなければです、人は信用しません。自分自身がおかげを受けておらなければ、人に通じません。そこでまあ自己主義のようではありますけれども、まず私自身が助からなければならないということです。それで、おれだけ助かればええというのではなくてです、私共が助かる事の言わば程度に応じてです。自分の助かっておる事を人に伝えお金はないけれども。
こういう災難の中にあるけれども難儀の中にあるけれども、私はかくおかげを受けておるという事を人に伝えさせて頂けれる信心。私はまあ結論的に今日の親先生のお話を頂きながら、ああここまでは頂いておきたいなあと思うた。ここまでは皆ひとつ頂いておかなければならないと言う事。それは今私が申します様に日々万事万端の上にご都合お繰り合わせをお取次ぎを願い。
願わせて頂いて、最高のおかげであるところの平穏無事のおかげを頂かせて頂くと言う願いと同時に、この願いが切実にしかも、実意丁寧に願われる信心を。そしてこのように願うておるにもかかわらず、どのような事が起こってきてもです、驚かんでもすむ信心。いやそのことをです、難をみかげにしていけれる信心。その難をおかげにしていけれるところの信心。ここまでは頂いておかなければいけないと思う。
もうそこんところをね、親先生のお話を頂いておりますと、もうほんとにこうなんか矛盾を感ずるようですけれども、ぜんぜん矛盾を感じん。親先生の話をいただきよると。もうそれをそうと思いこんでおられる。日々、平穏無事を祈って祈って祈り抜かせて頂いておる。その上にです、例えば難儀な事が起こってきても、目の前が真っ暗になるような事が起こってきてもです、それを、おかげの元にしていけれるという事。
どのような事が起こってきても、驚かんですむ、驚いてはならんぞと仰る、驚かんですむだけの信心。ここまでは頂いとかなければならない。自分の信心に。金光様の信心はここである。そこからです、例えて、私一番今日初めに、皆さん聞いていただいた。お道の信心のそのおかげ観というもの。おかげとは、それをどう見るかと言うこと。だからそこんところに、稽古があるのです。
欠けた湯のみ茶碗でお茶を出される。あら、すみませんとこう取り換えようとすると、いいやおかげですがと。欠けてることがおかげなんだから、こりゃおかげですよと。頂ける場合もあるけれどもです。なら、自分の持っておる大事なそれこそ、骨董価値のあるような皿をです、なら、こう割られた時にです、ああ、おかげですよと言えない。ああ、これはあなた十万円もする皿。ああ、もう欠けたら値打ちがない。
ああおかげでたったお湯のみ茶碗やらお茶飲み茶碗の時にはおかげと頂けれるけど、十万円もする骨董価値のある茶碗であると、それをおかげと頂きらないというところにです、ただ、おかげおかげと言うだけじゃいかんということ。なんでんおかげで頂きゃよかがのじゃいかんということ。いわゆるお道で言うところのおかげ観と言うものがね、出来ておらなければいけないと言うこと。
そこでですそう言う例えばなら、高価な茶碗が割れておると、または欠けた茶碗でお茶を出されると言う時に、ただおかげですがと言うだけではなくてですこういう割れた茶碗で出されなければならないということなんです。問題はこげな割れたっで失礼なと。言う様な頂き方をする人があるかもしれませよ。それかというとまた金光様の信心しとるもんが、ああそれでもおかげですがちゅうてから頂くかもしれませんよ。
だからそれでは本当のおかげではないって。その欠けた茶碗を出された時にです、ね、この欠けた茶碗がたしかない自分である事を気付かせて頂いて、そこん所をどこが欠けておっただろうかと自分を反省させてもろうて、ああ自分がこういうふうに欠けておるんだものね。真心が欠けておる心が欠けておる。是はこういう欠けた茶碗で出される筈だと分からして貰う時に、初めておかげ頂いたという事が言える訳なんです。
金光教のおかげ観というのはここだと私は思うんです。ああなんでんおかげおかげ。いつでしたかねあの有り難やと言うその、歌が流行ったでしょう。あれは大阪のある大きな教会のご信者さんがですね、もうなんでん有り難か有り難かって言うてその、帰りなさるとを誰かが聞いてそしてそれを、あの歌を作ったという話してあります。金光教の信心のものは、もうなんでん有難うさえうけていきゃあよか。
だからもう有り難や有り難や。有り難節になってしもうとる。そしてほんとに、心のそこから有り難いと言うほんとのおかげということを分かって有り難いと言いよるのはよいけれども、心でこげんよか茶碗と割られてからと思いながら、おかげがのおかげがのと言うとっただけじゃいけんということ。ただの有り難ばあさんじゃいけんということ。有り難いという意味が分からして頂くということは。
次には自分という者の反省がなされなければならない。そん時に初めて有り難いのでありそれが初めておかげという事が言えるのであります。皆さん欠け茶碗でお茶を出されるような事が日々沢山ありゃしませんか。そして偶にはこげな割れ茶碗でだしてから。と言うて腹を立てる様な事はないでしょうか。それがまあざあっと少しばっかりの損。あんまりばさからか苦い感じがないとああおかげがのおかげがのっち言いよる。
そういう程度におかげを留めておったんではいけんのです。ね。今朝の御理解を頂いておりますとです腹が立つと言う事はね、自分の心にそれこそ夜叉の様な心があるからだとこう言う事です。先日吉井の熊谷さんが古い新聞を持って来て下さった。もう何十年か前の甘木の教会で出されよった神愛と言う新聞なんです。それを見せて頂いとりましたら確か二日市の教会の先生がその書いておられる記事が載っとりました。
それを読ませて頂いとりますとね、至る所にその親恩感謝親恩感謝という事が書いてある。こりゃあもうお道の信心ではなくてもね皆が言いますよ。神恩感謝とけれども是は必ず神様の恩に対する感謝と書いてありますね。所がその新聞に書いてある親恩報謝というのはね、親の恩に感謝すると書いてある。段々読ませて頂いとりますともうそれこそ大変な難儀なところを通っておられる。奥さんも3人も変えておられる。
もうありゃ千草っていう確か言う先生ですけれども、千草の家の上に起きてくる、もう次々と起きてくる難儀な問題。もうそれこそもうこれで千草の家はしまえた、潰れたと言うようなところを何回も通っておられる。もう愈々これで千草の家もしまえたと言うような時に親先生、初代の安武松太郎先生にお取次ぎを願わせて頂いたら、千草さんあんたの家のことは安武松太郎が引き受けると仰った。
時にそれこそ大船に乗ったような気持ちで、お道の教師を志したと。そのお礼の印にお道の教師を志したとこう言うておられます。なるほど親恩報謝と千草先生で初めて言えれることだということが分かります。信心しても信心しても次々と難儀な事が起こってくる。もう愈々手も足も出らん、もうこれで家もしまえたと言うような時にです、松太郎先生が千草の家のことは私が引き受けたとこう言うて下さった時にです。
この親のご恩を感じこのご恩に報い奉るという事はどう言う事かと言う事を感じられた時に、いわゆる神様の願いは安武松太郎の願い、安武松太郎先生の願いは神様の願い。ですからそのままを自分の願いとして受けられた。自分ぐらいの者でもお道の御用に使うて頂くなら、そこに難儀な氏子が一人でも二人でも助かるという事が神の願いであり、安武松太郎先生の願いであると分かられた時に、そういう発心をなさったという様な意味の事が書いてある。ね。
甘木の松太郎先生は、もうえらいお方だったんですね、あちらの、あのご信者さん方はですね、私が知っておる範囲では、とにかく神様のおかげでですってちゅうもんはおらんです。皆親先生のおかげで親先生のおかげでって言う。その親先生が生神金光大神に通じてござり、天地の親神様に通うてござる。だから、安武松太郎先生の言われる事がそのまま、やはり神様のお言葉なんだもんね。と頂いておられるわけです。
ですから親先生のおかげでこの親に、いわゆる親恩、神様に神恩報謝なんて言うてもね、なかなか漠然とした神様。ござるやらござらんやら分からん神様。例えばご気感に叶わない様な事をしておっても、こらっこらっと言うてから、その注意をされる神様でもない。言葉をかけてくださる神様でもないもんですから、なかなかそのへんが、遠い神様になってくるけれども、自分の親先生を神様と頂かしてもらうところにです。
そこに安武松太郎そのままを生神金光大神と頂かれる。天地の親神様のお姿と頂かれる。そこからおかげを受けて徳を受けておられる方達が、親先生のおかげで親先生のおかげでとこういう事になってくる。もう親先生は目の当たりにおられる訳なんです。ですから実感的に神様の恩に感謝すると言うてもです、なんか遠い所にあるけれども親先生のご恩に報い奉ると言うたらもう撫でれば擦れば親先生が喜んで下さる。
一遍でも余計お引き寄せ頂けば親先生喜んで下さる。先生こんな美味しいもんが出来ましたけんと持っていきゃあもう親先生喜んで下さる。さあその親先生の喜びを自分の喜びとして生活ができるような信心。それを千草先生は親恩報謝の生活と言われております。私がはじめてお参りしてくる方達にです、何でもお礼を言わないけん。木の切り株に腰下ろしても立つ時には礼を言う心持になれよと仰るから例えて言うならば。
履いてきた下駄にでも靴にでもお礼を言わないかんよ。また履かしてもらう時にはまた、履かして頂きますというような心で履かないけんよと。今まで靴にども履物にどもお礼を言うたり、頼んだりしたことないけれどもです、そういう心にならなければいけないと、これは一番初めに参ってきた人に私が言う、だいたい。有り難いと言う、その感謝の言葉を述べなさいと。すべての事柄に。
次にはただ今申しますような、神恩報謝であります。今朝の御理解を頂いておりますと、木の切り株に腰を下ろしても、立つ時にはお礼を言う心持ということは、ただ今申しますように、神恩報謝であったりですね、親先生のおかげでおかげで、今日の私どもがあるんだと分からして頂いた時に、親先生に対するところの、すべてが親先生のおかげでと言うて感謝の心が湧いてくる。
いわゆる履物一つにでもお礼を言うような心持、そこに大体信心生活が出来たかのように見えるけれども、本当の意味の事はそうじゃない。どんなに素直な人であろうが、善人であろうが。ただ信心のない時に自分な悪い事した事がない、泥棒なんぞしたことがない人を殺した事もない傷付けたこともないと。言う様な事で自分を善人だと思うておったんじゃ間違いだ。
自分の心の中に先程申します様にです夜叉の様な心がある。乞食の様に貰い根性が強いそういう自分をぎりぎり見極めさして貰う。自分と言うものをぎりぎり見極めさせて頂く所からです、その汚い心に言わば恐ろしい心に取り組ませて頂いてです、それを一分でも一厘ずつでも改まっていき、そこへ縋っていくという。そういう心の有った事にそういう心に気づかせて頂いた事にお礼を言う事だということ。
今朝の御理解そうでした。信心さして頂いとってです、教えを頂けば頂くほど、教えの鏡を前に立てれば立てるほど自分の浅ましい心が生まれて来る。分かって来る。これがほんとに、鬼の面じゃろうか、夜叉の面じゃろうかと、夜叉の面を見るような心が自分の心の中にある。それが人に噛み付きよる。人を食い殺しよる。心で殺すのは重い罪じゃとおっしゃるのはそれなんです。心で殺しよる。心で傷付けよる。
腹が立つこれは自分の心の中に夜叉がすんでおる証拠です。自分の腹が立った時の顔を鏡で見てご覧なさい。夜叉の面といっちょん変わらん。それでより明るくよりにこやかにと言うてもです、形だけのにこやかじゃいけんから根本的にこういうものに取り組まなければいけないのである。と言うてならこれがですよ、簡単に取り除ける物ではないけれども、それに気付かせてもらうという事。
自分の心の中にそういうあさましい心があったことに気付かせてもろうて、それに取り組まさせて頂いて、信心の稽古をさせて頂くということにです、木の切りかぶに腰をおろしても立つ時には礼を言う。こういう汚い心があるから、私はこのような修行も出来ます、このような信心も出来ますと言うところ。ね。それが、90になっても100になっても、やはる親鸞聖人様じゃないけれども、御年90にもなられてからやはり日本一の大悪人と自分を言うておられます。
世の中の人達には生き仏様のように言われながらもです、自分自身の心の中には日本一の大悪人を見ておられる。私はそういうようなね、自分のあさましいその心に気付かしてもらえる。それに取り組まして頂くと言うことがです、私は今日は心行だと申しました。お道の信心は表行よりも心行をせよとおっしゃる。表行というのは、表に表われた行。表と書いてある。表行と言うのは。心行と言うのは心の行と書いてある。
今までは例えば不平不足が出よる時には、ああこんなこっちゃいかん。不平不足を言うちゃならんとこう静める事が心行だ。または腹が立つ。ああここで腹を立てちゃならん。金光様金光様と言うて辛抱さしてもらうことが心の行であり、心行だとこう、なるほどそれも心行。けれども、一番の心行は自分自身の心の中にです、夜叉のような心、乞食のようなその貰い根性、人に噛み付くような心というものがです。
そういう心が、自分の心に発見できた時、そういう心に取り組んで改まろうと信心は日々の改まりが第一だというその根本的なところに取り組まさせて頂けれるようになったということがです、こういう汚い心があっておかげだということになるのである。木の切り株に腰をおろしても立つ時には礼を言う心持が生まれて来る。自分のあさましい心の中にですらお礼が言えれる。なぜ言えれるか。
自分が夜叉のようだからお礼を言うのではない。夜叉のような心を発見したから、それを取り除かにゃあ、取り除かにゃあと思うその心がおかげなんだ。それが今日私が言うお道の信心のほんとの、言わば、おかげというのはそれなんだ。おかげ観というのはそれなんだ。教祖の神様が、まだ、普通からは信心文と言われなさるような時代。二人のお子様がご一緒に病気にかかられた。どこの神様にも仏様にも願われた。
神主さんにもお取次ぎを願うて願うて貰いなさったけれども、とうとうようじょうのかいもなく信心のかいもなく一人のお子さんが亡くなられた。おかげで一人は助かられた。時に神様の前に膝まついて述べておられる言葉がね。おかげを頂きまして神様あなたのおかげで一人が助かりましたと言うておられます。私の信心の不行き届きが私の信心の不行き届きが、あたらこの子供を亡くしてしましましたと言うておられる。
ここに教祖の信心の素晴らしさがあり、いわゆる金光教で言う、のちのち金光教で言うおかげというものがです、おかげというものをどう見るか。ここんところにどのようにおかげ頂いても、おかげを落とさんですむおかげ。私今日のお月次祭でも、こうやって仕えさして頂きながら思うた。いやあ、今日のお祭りはまるきり大祭のごたるなとこう思う。なら、こういうようなおかげがね。
大坪総一郎の信心が出来ておるからこういうてんきりのおかげを下さるというわけじゃないって。私の信心ができておるからじゃない。このおかげはあなたのおかげであり、そこに反対に、自分の子供が亡くなると言ったような時には私の信心の不行き届きとして詫びられるところの信心。おかげはあなたのおかげである。そういう頂き方の中にです、私はお道の信心のいわゆるおかげ観を感じます。
お願いしたばってんからおかげいただききらじゃった。これではね、本当のお道の信心のおかげになっていかないと思う。ね。あなたのおかげで一人が助かった。私の信心の不行き届きが、あたら、この子を亡くしてしまうような結果になりましたと言うて、それを言葉だけじゃない、思うておるだけじゃない、そこの氏神様の神主を呼んで、そしてこのなにがし、お礼のお金をなにがしを包まれ、それを奉納されて、言わば、お礼のお祭りやら、お詫びのお祭りやらをなさっておられます。
私はそこからです、金光教の信心がこういう、年勝り代勝りのおかげになってきたんだと思うのです。だからそういう信心の、ひとつのスタイルとでも申しましょうか。いやね、私の信心の内容になってこなければ駄目なんだ。今日私が御神前に、今日は皆さんに何を聞いてもらおうかと思うて御神前に額づかして頂いたら、ほんとに骨董価値のありそうな見事なお皿が欠けておる。割れておる。
いやあ、この皿は立派な皿、おしいことだと。こう、私が御神願に拝みながら思いよる。そして、次々に思われることです。割れた茶碗でご飯を出されたり、割れた、欠けた茶碗でお茶を出されたりしたぐらいのことならばです。いやあ、おかげですがのとこう言えれる。金光様の御信心でおかげおかげと言うておるのは皆この程度のことじゃなかろうか。いやあおかげですがの、なんでん有難う受けにゃ。
ありゃもう、割れとるのもおかげはおかげじゃけん。おかげです。おかげです。それでも自分が一通り何度もおかげおかげと言えれるように思うとるけれども、んなら、目の前が真っ暗になるような事が起こってきて時にはそれがおかげと頂ききらん。これほど信心するのにと言うことになってくる。そういう高価な物が欠けておる時にはです、欠けた時にはです、おしいことだったとこう思うのではいけない。
そういう欠けた物で出された時でも、欠けた物で出されなければならない、私を感じた時、分からしてもろうた時に、初めてそれがおかげであると言うのがお道で言うおかげだということを今日皆さんに聴いてもらったですね。金光教のいわゆるおかげ観。今日親先生のお説教の中に頂かしてもろうた。順々として説かれる。簡単とではあるけれども、繰り返し繰り返しお説きになる中から。
私は今日、ただ今皆さんに聞いて頂いたような事を感じた。ね。そしてここまでは頂いておきたい。金光様の御信心するなら、ここまでは頂いておきたい。それは、日々をです、今日もどうぞ平穏無事で、おかげが頂けますように。障子一重がままならぬ人の身でございますので、先にどういう災難、難儀が待ち構えておるやら分かりませんのですけれども。そこをタイミングよう万事万端の上にご都合お繰り合わせを願うわせてもろうて、そこに、喜びと感謝の心で生活のできれる信心。
そうして願いながらも、そうした信心をさせていただきながらも、万一目の前が真っ暗になるような事が起こってきても、レールの上に自分の首がそこに転がってしまうような結果になっても、その時に、どっこいと言う信心。こういう時に驚かんですむ信心。慌てんですむ信心。いわゆる、どういう難儀な場合であっても、その難儀を乗り越えて、それをただ乗り越えるだけでなく、それをおかげにしていくという信心。
これは、まあ、合楽の信心を皆さんが見てくだされば分かるでしょうが。合楽的さまざまな難儀が、沢山ございましたけれども、その合楽的その難儀の中からです、そこを乗り越えるだけではなくて、必ずそれをおかげにして行った。ああ、神様の御神意はここにあったのかと思われるほどにそれをおかげにしていった。そういうおかげ。それが、今日私が申します金光教の、いわゆるおかげ観というものがほんとに腹入りして。
そんなら腹入りした、分かっただけじゃいかん。親先生が今日はこうもおっしゃった。何でも頂く頂くと言うてもです、お話を頂くと言う、おかげを頂くと言うけれどもです、ただ、おごちそうを目の前に出されてからそれを、おいしく頂くというだけではいけないということ。頂いただけじゃいけません。ばってん、今日の御理解は有り難かったと言うてその、頂いただけで皆が帰りよる。それを頂いて、おし頂いて。
それを自分が食べなければ、血にも肉にもならないのだということをおっしゃっておられます。それを自分の頂くいわゆる、心の糧としてのいただき方が、それがそこに血肉になってくる時にです、今まで自分では想像もつかなかった、いわゆる心が頂けて来るようになる。自分で自分の心が拝みたいごたる心が生まれて来る。どういうような目の前が真っ暗になるような事が起こってきてもです。ああこれが日頃の信心だなあっとどっこいそれを信心で受け止めさせて頂けれる心が何時の間にかそなわってくる。
私が今日皆さんに聞いて頂いてここまでは分かって頂きたいというのはそれ。日々をですよ今日もどうぞ無事にお商売も繁盛しますように、平穏無事で万事万端の上にご都合お繰り合わせを頂いて。お願いをさしてもらえれる素直な信心。しかもそれを切に願わせていただきながらも例えば損がいったとか、怪我をしたとか災難におうたという時であってもそれを神様のせいにせずに、そういうこれをかけておるとをですね。
そのそういうおかげの茶碗を出される自分である事をです、分からしてもろうてそこにおかげを分からしてもろうて。一段とそこから信心を進めて行き。その事がおかげの元になって行く様な信心を頂く所までは身につけておきたい。そこまでは信心の稽古をしておきたいと私は思う。悲しい時の言わば神頼み的な信心からです、そういう私は信心を身につけて行くということ。その事をお道で言うところのおかげと分からして頂く信心をです、愈々身につけて行きたいと思うのでございます。
どうぞ。